なんか昨日寝る直前にふと思い浮かんだのでまとまってないけど書いておいてみる。

少し前に相方の連れられて吹奏楽の演奏会を聴きに行ったり、この間WOWOWで「アマデウス」やってたので見てて思ったことなのだけど。クラシック音楽のあの時代は、「楽譜」がメディア/記録媒体であって、オーケストラ、というのがそれを再生する装置であった、のかなと。

録音技術が発展する前は、共有できるものは「楽譜」であって、音そのものではなかった。演奏者というのは楽譜に書かれた音楽を再生する装置であって、大事なのは「楽譜」つまり「楽曲」。もちろん演奏者の善し悪しはあっただろうけど、多分それはある意味では今でいう「オーディオ機器の善し悪し」と近い感覚だったのかもしれない。

それが「録音」という手法の発見により、楽譜でなくて音そのものが記録媒体に乗って共有される。そうすると、「優れた楽曲」だけでなくて「優れた演奏」「優れた演奏家」「優れた歌い手」というのにも価値が生まれて、名演と呼ばれるものが記録されてシェアされる。今や場合によっては楽曲制作者の影は薄く、パフォーマーのほうがある意味では目立っている部分もある。実際、録音以前の世界では、名の残っているのは主に楽曲と作曲家であったのに対して、録音以後は演奏家パフォーマーがたくさん名を残している。

記録媒体の特性とかによって、なにに価値があるか、が変化するというのはあることなのだろうなーと。

…んで、今なのだけど。

とりあえず、インターネット時代になって、記録媒体としては音だけでなくて映像や文字情報なども追加でき、さらに後からでもどんどん追記したりできるようになって。生演奏という、本来その場に行ってその場で体感する以外になかったものが、生配信や疑似同期によって録音されたCDと同じような、共有しやすいコンテンツになってきたりして。

体験を通じて得た感動やなにやらを共有するところまで含めてひとつのコンテンツと呼ぶような時代になるのか、どんな人が脚光を浴びるのか。…とりあえず面白い時代になってまいりました。